うさぎさんブログ「うさぎの日記」より

劇団キンダースペース「新・牡丹灯籠」

先日、劇団キンダースペースの「新牡丹灯籠」を両国にあるシアターX にて観劇。
キンダースペースの本公演で和物を見せて貰うのは初めてでした。
随分早い時期から、着付けや、所作など立ち居振る舞い
稽古を重ねていたようです。
三遊亭圓朝の原作を代表原田一樹氏が構成・脚本・そして演出。

新とついておりますように、いくつかの作品を一つのストーリーにまとめ上げた
キンダーならではの牡丹灯籠。楽しく拝見させて頂きました。
楽しくと言うのは、言葉として語弊があるのかもしれません。
興味深く?がいいのかな?

「牡丹灯籠が私たちを引きつけるのは、
復習による怨念が別の世界からの襲撃ではなく
愛の執着によるもう一つの世界への誘惑であるからです。」

と、原田氏は、書いています。

死してなお、愛する人の元へ通うお露。
愛しているがゆえに、愛する人に執着し、
愛している人さえも自分の世界に連れて行こうとする。
人間の業。

貧乏長屋で、肩寄せ合って、生きていた頃は
元気に満ちあふれていた、伴蔵とお峰。
大金を手にしたときから、歯車が狂っていく。

人を陥れて愛を手に入れようとしたお国と源次郎は幸せになることはなく。

死んでいても生きていても、
人間は、結局愚かなことを繰り返しているのかとそう思わせる舞台でした。

怪談話。得体の知れない事への恐怖。
その得体の知れないことは、実は、人間そのものの中にあるのかなぁと。

時代物は難しいと、
お米のS子ちゃんが言っていたけれど、
こういう風に、自分たちのDNAに潜む何かを学びつつ、
演じるのは、彼らにとって、力になるんだろうなぁ。

最近若手がとても頑張っていて、
全体的に毎回一番いいんじゃないと思う舞台になっているキンダースペース。
これから楽しみです。


PEARさんブログ「100% JUICE BLEND」より

新・牡丹灯籠 お峰のこと

劇団キンダースペース公演 「新・牡丹灯籠」 (於両国 シアターカイ)
 1月30日楽日 昼の部を観劇した。

 三遊亭圓朝の原作を劇団キンダースペース代表 原田一樹氏がどのように演出・脚色・構成されて、新・牡丹灯籠に仕立て上げるのか、複雑に絡み合う人間模様をこの舞台のスペースにどう展開させていくのかと、始まりからワクワクしながら観劇した。

 牡丹灯籠は単純な怪談話であり、カラーンコローンと駒下駄の音高く、死してなお夜な夜な愛しい新三郎の元へ灯篭を下げてやってくる露の悲恋物語かと思ったらそうでもない。
 むしろ、この二人を取り巻く周りの人間模様、スクランブル交差点のように絡み合う情念の世界のほうにフォーカスが合っていく。

 3Dのように遠近法をうまく利用しながら、観客席の上を渡る花道が効果的な舞台の上で物語は展開していった。

 多数の登場人物のなかで、瀬田ひろ美さん演じたお峰の内面を掘り下げて、観劇後に残った想いを言葉に探した。

 貧乏長屋での活気溢れるお峰と伴蔵の生活が、主人を裏切って大金を手にしたことから軌道を逸していく。
 面白いことに主人との関係を密にしていた頃の人間味あふれる伴蔵が、つまらないただの大店のすけべな男に変わっていくあたりが、お金と引き換えに幽霊に魂を売っぱらってしまったように見えてしまう。

 幽霊から大金を引き出す画策を伴蔵に授けたお峰は、強欲な女として知られているようだが、この「新・牡丹灯籠」においては、実に可愛らしいおきゃんな女房として描かれている。

 物語のそこここに潜む怨念はこのお峰にも絡みつく。富を得るかわりにお峰は砂漠のように激しい渇きを心の中にため込むようになっていく。
 貧乏長屋にいたころには、吹き込む寒い隙間風だって愛する人と二人で温め合って跳ね返したものを、心にどうしようもない渇きを覚えてしまうと、感情をどの方向に向けていいのかさえわからなくなっていったのではないだろうか。

 それでもお峰はどこかで伴蔵に賭けてみたかったんだろうなぁ。
 
 人は愛する者や大切な人の切り開く未来を、同じ場所から見つめていたいと思うものではないのか。
 お峰が伴蔵の刃に倒れていくそのときの、伴蔵の背中にまわしたお峰の両手が愛しい人の裏切りを受け止め、許して死にゆくように感じて仕方がなかった。瀬田さんのあの手の演技がどんなセリフよりもお峰の心情を語っていたように想う。

 人間の心の奥に棲みつく暗闇は、宿り主を支配し、ときに破滅へと導く。
 その人間の好むと好まざるにかかわらず、複雑に絡み合ったシチュエーションや情念が加速を余儀なくさせるのだが、愛によってどうしようもない呪縛に縛りあげられていく愚かな人間はまた、愛しくもあり、可愛くもあり、哀しい。

 牡丹灯籠という物語は、現代においても巷で繰り広げられる人間模様に相通ずるものがあり、だからこそ長いこと語り継がれてきたのだろう。

 キンダースペースの公演はいつも楽日観劇で叶わないのだが、もう一度丁寧に観てみたいと思わせる舞台だった。


ななさこさんのブログ「日々これ思う」より

ゆめ

言葉だけでは伝えられないけど
言葉でしか伝えることはできない

キンダースペースさんの
新・牡丹灯籠を観劇

落語がネタ元だけに?
夢オチだった訳ですが
誰のどんな夢であったか
というのを妄想する楽しみを残してくれた舞台です

潔く、粋で、生きることに逞しい世界

そう今の日本にかけてるのは
忠義や仁義や恩義や信頼関係なぞではなく

生きることへの逞しさ

ではないかしら
と、思いました

私としましては珍しく、キンダーさんの観劇後に
元気ハツラツな心もちになって

何だか不思議です

さてはて
誰のどんな夢か?

まずは源次郎と伴蔵の夢

劇中は全部現実で獄中で更に夢で繰り返しうなされた二人

というのは、なかなか残酷な好みですが

芝居としては奥行が狭くなるだうろし
何より幽霊の存在をかんたんに認めてしまうのもね…

幽霊は伴蔵の心に潜む魔物が見せた幻

死んだ露と米を見たと
仰天して伴蔵がお峰に話をし
本当はお峰はへっぴり腰のヘタレ亭主の馬鹿な繰りごとに
喝を入れただけなのに

大金さえあれば…俺だって

と常日頃から心の中で己に合わぬ欲望を持っていた彼には

嫁の誘い水、後押しと変換され

嫁が望むんだからと道を踏み外す
(という夢をみた)

とかね

源次郎は、斬られた殿様がお国といるところにくる
ところからが夢

お殿様は源次郎が潜んでいるのをわかった上で
わざと源次郎、お国を斬りに行くと言ったのでは?

その恐怖と
お国の気持や言葉と、自分自身のポテンシャルを
信じられないが故の夢

露と新三郎は
露が幽霊かどうかはおいといて

御互いが御互いの愛を試したのかな

如来像がすり替えられたのを露も知っていて
さらには
新三郎自らが、伴蔵の謀りをいさめて
実は自分がすり替えていて

という前提での二人のやりとりであったと
私はみます

現世かあの世かはわからないが
二人が結ばれたのは
現実として

殿様と竹は亡くなったが
源次郎に斬られたのではなく
瀕死の殿様を竹が介錯し、その後自身も自害

孝助の見据えた先の未来には
殿様がこうありたかったであろう幻想を後に
自身の道を切り開く意志がある

〜〜〜

なぞと想像する私が

まさに

欲しているものは
さて何か

自問自答していこうと思います

とても楽しい舞台でした