観劇後の感想
〈演出家/多和田真太良氏 【観劇帖
〉より

【観劇帖】劇団キンダースペース『プラトーノフ』

2014年2月1日(土)両国・シアターχ(カイ)

俳優座の俳優矢野宣の追悼公演。矢野の出演した初演(2007年)の再演となった。

テクストはチェーホフが本格的な作家デビュー前、すなわち大学2年生で書き、死後に発見された際に、題名の書かれた表紙が欠損していた作品を構成したものである(構成・演出:原田一樹)。チェーホフ自身が大幅に赤を入れ(実際には青ペンで修正)、上演時間が8時間に及ぶ原稿は、最終的には墓まで持って行った、つまり文字通り「お蔵入り」になっていた訳なので、チェーホフとしては草葉の陰からどのような心境で見守っているだろうか。

2時間ほどに研ぎすまされたこの上演が濃厚にチェーホフを感じさせる新たなテクストとして成立し得たのは、優れた構成力と、またチェーホフ戯曲に対する深い理解と愛情なしには語れないだろう。それを余すところなく丁寧に作り上げた俳優陣にも賛辞を述べたい。

大きな要素を挙げれば、美しい未亡人アンナが広大な所有地が競売にかかるのを何の対策も講じず破滅する(『桜の園』)、プラトーノフとアンナやソフィアの禁断の恋(『ワーニャ伯父さん』『イワーノフ』)、「働く」「ちゃんと生活する」ことで、停滞した自分の状況を打破しようとしつつ、そこから抜け出せない人々(『三人姉妹』)といったように、物語はチェーホフの後期戯曲を思わせる静かで暗い破綻と墜落に満ちている。

そのどれもが、結末として用意されたプラトーノフの死という英雄的なドラマを頂点に(彼の死ですら、「私、分かっていた」(『三人姉妹』イリーナの台詞)に代表されるように予期出来る結末で、大きな衝撃は走らないが)、沸点には届かない、つまり鬱々とうごめくような熱の中で、つまり日々の生活の中で起こる。この事件性のなさは、後期の戯曲になるほど際立つ、という研究があるが、『プラトーノフ』においては、やや活発に複数の事件が勃発し、ややドラマチックである。その人間の熱っぽい描き方においてユージン・オニールを思わせる。これはオニールも手がけているこの劇団の特色かもしれない。

プラトーノフという人物の死が、ギリシャ悲劇的な、英雄的側面を備えている。彼の死によって、浮気したもの、浮気されたもの、全ての不具合の清算が行われる。比較的分かりやすい図式が容易に見えてしまうところが、チェーホフの「習作」である点だろう。

ギリシャ悲劇の英雄は、周囲の人間とは同化出来ないし、人々の不幸や、生活の障害を、一人死ぬことで打開する。チェーホフはその図式を保持しつつ、英雄を高貴で高潔な人物ではなく、嫌みで皮肉屋であるが、どこかに、自分は周囲の人間とは違う何者かだというエリート意識を持っている近代的な自我を持った矛盾だらけの人間として創出したのである。それは次第にイワーノフを経てワーニャ伯父さんという人物を生み出す。敵を倒すことも、英雄的な死を遂げることも出来ない人物を舞台に取り残す、というグロテスクなウィットを、チェーホフはまだ会得していないのだ。それは『桜の園』のラネーフスカヤとなる未亡人アンナも同じで、『プラトーノフ』では、自らの没落を受け入れたかのような不可解な姿とは対照的に老グラゴリエフの愛を拒み、プラトーノフへの愛に自ら走る能動的な姿を見せる。誤解を恐れずに言えば、短絡的だが、一貫性もないという人物の不完全さを、オニールに代表され、いわばチェーホフが封印したメロドラマ的、ドラマチックな色合いを掘り起こすことで鑑賞に堪えうる作品になったとも言えるのではないか。

従って、『プラトーノフ』に登場する、後期戯曲ほど成熟していない「未完成」な人物たちを演じる方が困難を極める可能性は十分ある。この公演の俳優たちはそのことを承知の上で、それぞれ実に魅力的な人物として造形していた。ロシア人特有で、日本人には特に記憶するのが難しい個人名を全て把握しなくても、きちんと役割と特色を分担した役作りは、一人として重複した印象を与えず、観客の視聴を容易にしてくれている。これは入念な稽古によって「アンサンブル」が成熟していたからに他ならない。誤解されがちだが近頃「アンサンブル」は、全員が同じベクトルに向けて調和する演技の集団のことではない。それは「コロス(コーラス)」でしかない。「アンサンブル」とは、一人一人がオーケストラ譜の一パートを担うように、別々の役割を果たしながら全体として欠落のない厚みのある演技空間が創出されることである。

その中でも特筆すべきはプラトーノフの白州本樹だろう。彼から醸し出される「いい加減さ」が、まず異質な存在を決定づける。熱を帯びない「いい加減」な彼が、絶望したり、怒りをあらわにしたり、熱情に浮かされたりするからこそ、観客は事態の深刻さと異常さを客観的に傍観出来た。

同様に“馬泥棒”オシップの三島景太(SPAC)の怪演は見事だった。理由はプラトーノフと同じく「異質さ」が鍵だからである。演技の質が異なる俳優を的確な場所に配置し、厚みのあるアンサンブル劇に仕上がった。

女性ではアンナの瀬田ひろ美の存在感が大きい。禁欲的にも見えるアンナが、公私ともに墜落して、急速にプラトーノフに愛を向ける。それでも愛欲渦巻く世代とは一線を画しているという複雑な立場を物腰柔らかく演じていた。

原田の演出はスピーディーで、躍動感のあるチェーホフを生み出している。ただ休憩明け冒頭のプラトーノフを次々訪れる糾弾者たちは、現実の時間とプラトーノフの脳裏の中の回想が交錯し立ち現れるのだが、他の場面と同じくリアリズムのままだった。舞台の象徴主義的デザインを際立たせる機会を生かして欲しかった(美術も原田)。また花火が供される夜祭りの中から、ワルツが聞こえてくるが、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』から「花のワルツ」というのはいかにも説明的でやや興をそがれた。ちなみに『プラトーノフ』執筆は1880年から1881年、『くるみ割り人形』の初演は1892年。時代に沿って描かれている今回の舞台の音楽としては不似合いな気がする。さらになぜ2台ピアノという特殊な編曲版が使用されたのか。屋外で演奏されるにしてはやや不自然な感じがする。

チェーホフ、という括りに限らず、全体に最近お目にかかれない極めて良質な舞台であった。そこに見えるのは人間を丁寧に観察し舞台の上に再現する、という演劇の根源的な作業を実践した劇団と、医学的な冷めた視線から描いた、チェーホフという巨人の屈折した人間愛である。