短編演劇アンソロジー 四〈近代作家シリーズ〉 志賀直哉篇
【一瞬の交錯】

 

短編演劇アンソロジーで日本の近代文学を取り上げるのは、芥川龍之介篇「南京の基督」「アグニの神」、織田作之助篇「競馬」「勧善懲悪」につづいて、三回目の企画となります。

キンダースペースの文学作品への取り組みは、俳優が一人で小説世界を繰り広げる『モノドラマ』で先行しており、こちらの演目は既に五十本を超えております。


 私達が日本の近代文学を取り上げるのは、何よりも先ず私達が、私達自身に特有である(と、私達が信じている)感性や心情の姿をもう一度捉えなおしたいと考えたからです。私たちの感性と呼ばれるものは、はたしてどこにあるのか? これは、私たちだけのものなのか、それとも世界中の誰でも感じうることなのか? 私たちが劇的であると感じ、心を動かす時、それは何によってもたらされる、どのようなものなのか? 


 もちろん私達は作り手であり、社会科学者でも心理学者でもありません。まして、日本人の感性が優れているなどと言いたいわけでもありません。ただ、私たちは、小説作品にながれる、極めて独自の心象であると思われる部分を頼りに、演劇と言うものを成立させてみようと考えているだけです。


 この独自の感覚とは、何も、花鳥風月の美しさや、時の移り変わりのもたらす無常感ばかりではありません。例えば、芥川の場合、人工的に組み立てられて物語の背後にある危うさや不安であり。織田作の場合、その不安と拠り所のなさを抱えつつも、日本人の持つ無頼のエネルギーであり。


今回の志賀直哉の場合は、偶然の出会いのもたらす闇への執着です。


また一方で、我々の演劇の方法はリアリズムと呼べるものであり、そのおおもとは周知の通り、明治期に「新劇」として欧米から輸入されたもので、演技論のベースにあるものには近代個人主義が反映されています。いまや「新劇」も、確固としたスタイルを持つことで持続しているわけではなく、大きな現代演劇の中に収斂されているように思われます。


 短編演劇アンソロジーは、つまり、文学というものを取り上げる事によって、私たちの演劇というものの立脚点もまた、探ろうとするものです。

構成・演出 原田一樹