短編演劇アンソロジー 四〈近代作家シリーズ〉志賀直哉篇

【一瞬の交錯】

 あらすじ

『剃刀』

麻布六本木の理髪店「辰床」の芳三郎は、剃刀にかけては名人であった。それが皇霊祭前の忙しい盛りに風邪を引き床に就いた。店にいるのは、兼次郎、錦公という十二三の子供である。昼になり客が立て込んでくる。何も出来ない自分に芳三郎の神経はぴりぴりしてくる。そこへ、剃刀を研いでくれと言う女の客がやってくる。芳三郎は、女房が反対するのに耳を貸さずその依頼を受ける。しかし、熱で手が震える状態でうまく研ぐことが出来ない。精も根も尽きた彼は寝入ってしまう。夜になり、錦公が昼間の客からの剃刀を持ってくる。使ってみたがあまりよく切れないという。彼は皮砥をほぐし、剃刀を持って土間へ下りる。その時、硝子戸を威勢良く開け二十二、三の若者が入ってくる。粋がった口調、下司ばった風情が彼を苛立たせる。疲労と怒り、意識の朦朧と自負の交錯の中、刃が男の喉に引っ掛かる。血が一筋流れる。しかし客は、何ごともないかのように、無邪気な寝息を立てている。かつて客の顔を傷つけたことのなかった芳三郎は、剃刀を持ち替える。

『范の犯罪』

范という支那人の奇術師が演芸中にナイフで妻を殺してしまう。その演芸は戸板の前に女を立たせて二間ほど離れたところからナイフを投げ、身体の輪郭に沿うように打ち込んでいく芸である。座長も彼の助手も法廷での証言で過失か故意かは判断がつかないと言う。ただ夫婦仲は以前より周りから見てもわかるほど悪くなっている。本人が呼び出され言うには、妻のことは結婚してから子供が産まれるまで心の底から愛していたが、生まれた子供が自分の子供ではないことを知り、相手の男も知っていると言う。それ以後妻を見るたびにある特別な感情がわきあがるが、離婚を言い出すことが出来ない自分の弱さも知っている。裁判官の過失か故意かという問いに、全くわからないと答える范。自分には自白ということがなくなったと彼は言う。妻の死を悲しむ心はないか、という裁判官の最後の問いに范は答える。