演技する、ということは他者になるということである。
他者になると言うことは、われを忘れるということではなく、むしろ、われというものの存在を外側からも内側からももう一度検証するということでもある。
太宰治が女の一人称、あるいは女によって書かれたものとして世に出した文章において、作者が舞台での演技と同じように女を演じていた、のかどうかは分からないが、少なくともその発想において「道化の華」から「人間失格」にむかうようなあり方を、どこか突き放し、小説家としての「われ」を、外側からも内側からももう一度見直す契機となったのではないか、という空想が、今度の企画の出発点である。
そうでなくては、作者の「新釈諸国話」や「お伽草子」はありえないように思うのだ。もちろんこれらは女性の一人称でかかれたものではない。むしろ、「斜陽」や、「ヴィヨンの妻」が女性による筆記体である。一方、男性によって書かれている体裁でも、「グッドバイ」や「トカトントン」はその演技において、自らを異化し切っている。
この太宰の演技を、舞台での演技、それはもちろん二重三重に演技するということなのですが、(「わざ、わざ」といわれてはだめです)に移した時、劇場の空間の向こう側に何が見えるのかというのが、今回の試みです。
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