批評通信 尾田量生氏    演劇時評 岩佐壮四郎氏  



「シアターX 批評通信」より
尾田量生氏・専門学校職員

そしてすべては藪の中へ

 鮮烈な幕開きであった。夜霧にけむる城壁を、自分の内面にじっと思いを注ぐかのように彷徨する霊の群。亡き先王である父の霊よりクローディアスの謀略を教えられ、復讐を企てるのがシェークスピアによるハムレットの根幹である。シェークスピア・太宰治「ハムレット」による「新・新ハムレット」は、この根幹を見事に裏切る幕開きであった。この霊の群の中に亡き先王はいたのか、はたまたいなかったのか。いなかったとしたら……。

 ハムレットがホレイショー達と先王の霊を確認する場面でのやりとりは、私がシェークスピアにいだく「ハムレット」というお芝居の、そうなるであろう予定調和的ストーリーの流れにいだく安心感を、一挙に不安へと落としこんでしまった。人は、正義という不確実性に安心を得ようとするものなのだ。ハムレットは本当に亡き先王に会い、クローディアスによる謀略をこまかく聞かされたのであろうか。その場に居合わせたホレイショー達には、亡き先王の姿は見えてはいない。ハムレットの一人芝居とでも受け取れる亡き先王との対話を、真実として誓いをさせられる訳だが、「誓います。」とのホレイショー達の言葉には力強さがない。ハムレットに正義はあるのか。この疑問が「新・新ハムレット」の全編についてまわる。どうやら原田演出の仕掛けにハマッタようだ。

 ハムレットの正義に揺さ振りをかける数々の場面は、太宰治による「新ハムレット」によるところが大きい。「新ハムレット」では、オフィーリアはハムレットの子を身ごもっている。妹がハムレットと付き合っていることを知ったレアティーズは、オフィーリアにハムレットと別れるように説得する。「あの人は、ニヒリストの道楽者だ。あの人は利巧だった。ませていた。なんにでも上達した。……けれども少しも熱が無い。あきっぽい。そのくせ他人の心の裏を覗くのが素早くて、人を軽蔑したフリをする。いやな奴だよ……」と、小さい時からハムレットの遊び相手を勤めていたレアティーズは手厳しい。レアティーズを演じた吉田利成、娘オフィーリアを心配するポローニアスを演じた牧口元美、この二人のオフィーリアとの世俗的な会話がリアリティーに溢れており、ニヒリストを気取るいやな奴ハムレットが浮かびあがる。兄として、父として、当然だと、観客として彼等の側についてしまう。

 さらに、ガートルードを演じた瀬田ひろ美は、国を思い、我が子を思う心優しき母親を好演し、不貞の結婚を非難するハムレットの正義を、「ハムレット、病というわけがわかりますか? あなたが装っている乱心のことではありません。装うことで隠している本心のことです。あなたが、隠さねばならぬような本心を抱いているということ、それを病といっているのです。」と一蹴する。先王殺しの張本人とされるクローディアスはどうであろうか。泉龍太演じるクローディアスは、気くばりがよく誠実さに溢れていた。彼が王位を継ぎ、ガートルードと結婚しなければならなかったデンマークの国情。また、終盤での、先王殺しは決意したが、実行してはいないと告白する彼の言葉に嘘は感じられない。

 自分の子を宿したオフィーリアに、尼寺へ行けと言いはなつハムレットに正義はあるのか。何が真実でないのか。ハムレットは本当に先王の亡霊と会ったのか。すべては藪の中。

 この芝居を観劇した翌日、イラクのフセイン大統領が発見され、拘束されたというニュースが世界を駆け巡った。フセイン大統領ではなく、フセイン前大統領だとニュースでは言っている。彼は、田舎の粗末な農家の側に作った隠れ穴に潜んでいるところを発見されたのである。人一人横になれる程の空間だと、ニュースは繰り返し映像を流している。彼は捕まった時、「撃つな、私はイラクの大統領だ」と言った。

 大量破壊兵器はいまだ見つからない。イラク戦争は、フセイン独裁政権を倒すための民主主義の正義の戦いだとアメリカは言う。フセイン独裁政権の善悪は別にして、この戦いが、ネオコンによる石油利権にからんだ侵略戦争だということは自明の理である。正義とはこんなものだ。その不確実性の正義に大衆は寄り掛かり、みかえりとして日常的安心を得る訳である。このことを知りぬいた権力は、マスコミを有効に操作する。

 大量破壊兵器という亡霊に導かれたフセインは、亡霊の言葉こそ真実だと、まわりのホレイショー国を説得し誓いを強要する。「行くべきか、行かざるべきか、それが問題だ。」とハムレット日本は、戦後初めて自衛隊の海外派遣を決定。日本の平和憲法をひっくり返すようなこの重要問題も、ハムレットの悩みと同様に、考えれば考える程陳腐なものになってしまう現代という時代。時が流れ、さまざまな出来事も、正義という名のもとに歴史的事実として藪の中へと葬り去られてしまう。このような時代の喉元に短剣を突きつけ、「おまえはどうするのだ!」と、原田演出による「新・新ハムレット」は、見る者に逃げ場を与えない。

☆著者紹介 尾田 量生(おだ・りょうせい)
 学校法人東放学園職員。演劇企画集団えるむ企画同人。
フランス、スペイン、オーストリア等海外公演の演出を行う。



「悲劇喜劇2004 3月号劇評」より
岩佐壮四郎氏・近代文学

  舞台は一面に灰色の城砦で、下手にある階段を一段ずつ降りてきたハムレットが最後の一段を降りきる寸前、ふと足を止めて背後を振り返ると、いつのまにかオフィーリアをはじめ様々な登場人物達が城砦の上に出現し、声もなく踊っている、という場面から始まります。
 この冒頭も仄めかすように、すでに死んでしまったハムレットが冥界から、現世の自分を振り返るという趣向の劇です。いわば、死者のまなざしで「ハムレット」という劇を捕らえ直してみようという試みで、たしかに新しい企てです。
 父王の亡霊が出現しなかったり、「リチャード三世」よろしく、死んだ者達がクローディアスを脅かしたり、劇中劇が思い切って省略されていたり、惨劇が終わったあとフォーティンブラスの到着を告げるのが、死んでしまったオフィーリアだったりするというような設定も新鮮ですが、それを見つめているのが死んだハムレットとなると、劇もややこれまでのこの劇と異なったふうに見えるから不思議です。太宰治の「新ハムレット」を典拠とした作品にふさわしく、ポローニアスやクローディアスによる若者批判もユニークです。