劇団俳優座公演
【九番目のラオ・ジウ】


構成・演出 原田一樹
作 郭宝崑(クオパオクン)
訳 山元清多
美術・衣裳 朝倉摂
照明 森田三郎
音響 小山田昭
振付 沢のえみ
舞台監督 川口浩三


 「ラオ・ジウは女系家族。八人姉妹のチャン一家に生まれた初めての男子。学問の秀才。
 彼は国中から選ばれた三百五十人の国家選抜奨学生候補の一人となり、エリートの中のエ
リートとなるべく、むかい来る超難問に挑戦する。世界の仕組みを解き明かし、新たな秩序
を創造し、迎える時代のそのリーダーとなるべき猛烈な勉学の真っ最中! 
しかし、そんな彼の心をつかんだのは、伯父である老人形師、彼が荷車の上で演じる人形芝
居だった。」
 秩序と渾沌、近代と現代、アジアと西洋、政治と芸術、合理と非合理、愛と打算。
 昨夏、六十三歳の若さで急逝したアジア演劇界の第一人者郭宝崑が、五十一歳で書き下ろ
した戯曲世界。どこまでが人の話で、どこからが人形、ゆらめく蝋燭に浮かび上がる幻の影
絵の世界なのか?
 そんな境界をやすやすと越えて展開する自由さと大らかなユーモアに貫かれています。
これは、河北省で生まれ、自然と戦争、祭礼と京劇、そして革命を体験しその後シンカポー
ルに移りキリスト教系学校に通い、ラジオ局で表現活動を始め、メルボルンで本格的に演劇
を学んだという作者の実体験と無関係ではないでしょう。
 私たちは今グローバリズムという大きな流れの中にいます。そしてこの中でこそ私たちは
自分が何者であるのか、その出自を確かめずにはいられない欲望を胸に抱きます。「九番目
のラオ・ジウ」が私たちにもとたらしてくれるものは、その奇妙ななつかしさばかりでなく、
世界に向かう時、わたしたちの自身の中に沸き上がる大きなエネルギーの元なのだと考えて
います。

「人はなぜ生きるのか?」
LABO公演「アーズリー家の三姉妹」「危険な曲り角」を演出して高評を得た
劇団キンダースペース主宰の原田一樹が、劇団俳優座本公演を初演出します!!

 『九番目のラオ・ジウ』の魅力あふれる困難さについてのノート。(パンフレットより)

 『九番目のラオ・ジウ』(山元清多氏による翻訳題名は『九さんの事』)という戯曲の持つ飛び抜けた魅力について書く前に、れんが書房新社発行の戯曲集『花降る日へ』の巻末に収められた作者自身の年譜の飛び抜けた魅力について、数行紹介したいと思います。
 そこには、こう書かれています。
 一九三九年〜四七年(0歳〜8歳)六月、中国河北省武邑縣小國村に生まれる。母の名は周巧。父親の郭鳳亭はシンガポールへ出稼ぎに出ていた。洪水や旱魃、イナゴの発生のような自然災害を目の当たりにし、強盗や日本軍の攻撃による破壊行為を目撃する。田舎寺院の祭礼や月例の村の市場で、初めて演劇の顕示を受ける。村の学校で中国の伝統的な教育を得る。(中略)
 一九四九年(10歳)人民解放軍の北京包囲とその平和的奪取を目撃する。初めての役者体験、民族オペラ『白毛女』の貧しい農民楊白勞(ヤンパイラオ)を学校で演じる。父親と彼の店で暮らすために聖夜にシンガポールへ飛ぶ(翻訳南俊一・坂口瑞穂)
 「魅力」というのはあるいは不謹慎であるかも知れません、が、おそらく作者自身によって意図的に配置されたこれらの経歴と歴史の並べ方にこそ、また、この記述のあっけないほどの明るさにこそ、劇作家郭宝崑の芸術性があるのであり、この戯曲集に収められた他の作品と比べても『九番目のラオ・ジウ』によって示される世界の特質は、この芸術性の結実であると思えてなりません。
 この世界において、主人公である天才少年ラオ・ジウがエリートの道を捨て、操り人形師として生きて行くことを選ぼうとする、というのが『九番目のラオ・ジウ』の物語です。
 この物語で中心的に語られているのは、誤解を恐れずに言えば「人は何故生きるのか」という単純すぎるほど単純な問いかけです。そしてまた誤解を恐れずに言えば『九番目のラオ・ジウ』という戯曲を演出、上演しようとする時に私たちが突き当たる魅力あふれる困難さもまた、このあまりの単純さに由来するものなのです。
 作品理解の上で、一つの補助線を引くことは誰でもまず思い当たることです。
 補助線の両側にはそれぞれ対立する二項が並べられます。例えば、社会と個人、システムと欲望、秩序と混沌、西洋とアジア、政治と芸術、新と古、愛と打算、近代と現代、支配と被支配、人為と自然、これらすべてが作品のなかに見え隠れしています。しかし作者は、どれも一緒だと微笑んでみせ、物語の最後では、子供の連れ帰った小鳥を殺してしまう父親の古話を紹介し、それが小鳥ばかりでなく歌を殺してしまったと言いながら、次には、この子供のその後については、この話はなにも語っていないと突き放すのです。
 こういうことが虚無的に語られるのでも、作中ラオ・ジウによって何度も引用される漢詩の、枯れた山水画の世界の中で語られるわけでもなく、いわば「肯定的」としかいいようの無いあっけらかんとした明るさの中に「単純に」並び置かれるのです。
 演出という作業は、誤解を恐れずに言えば、誤解する作業に他なりません。しかし、この誤解をあまりにやすやすと受け入れる単純さの前では、意地でも誤解をしたくないと思うのは人の常で、あるいはそれこそ作者の深慮遠謀かと思うのですが、それではあの飛び抜けた単純さの魅力を失うことにもなりかねません。思い悩み、稽古の合間にシンガポールで求めてきた作者のポートレートなどをながめると、どっちもありだと笑いかけているようでもあります。
 おそらく作者の、そして彼の作品の飛び抜けた魅力は、その飛び抜け方にある他はないのです。だとすると我々もまた、その飛び抜け方の中にこそ我々の困難を乗り越える方法を見いだすべきであり、それがあの日の孫悟空のように、お釈迦さまの手の平の上、つまり作者の手の平の上にあって、そこに喜びを見いだしつつ、この作品を楽しむ他はないのでしょう。
 その時、この作品の単純さが、我々に突き付けられるものとなるです。
 そして単純であるからこそ、私たちは、世界の中のそう遠くない地域、そう違わない環境に暮らす者同志として、先ず、お互いの「違い」というものに気付くことが出来るのだと考えています。                     

演出 原田一樹


2003.5.8(木)〜18(金)
5月 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18
曜日
2:00
7:00


場所 俳優座劇場 
地下鉄日比谷線・大江戸線 六本木6番出口前

料金 一般 5,250円
   学生 3,675円(全席指定・各税込)

劇団俳優座 予約問い合わせ 03-3405-4743

俳優座オフィシャルページ