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ここには、人生へのありとあらゆる意志がある。 |
私たちが、前世紀の中ごろに亡くなったこのアメリカの作家の作品を追求するのは、
この作家がピューリタニズムを軸として問い返し続けた「人はなぜ生きるのか」とい
う根源的な存在理由への問いが、西洋化という近代化をむかえ、東洋、アジア、日本
という自覚すら持ちにくい我々の曖昧な自我をつよく撃つからに他なりません。
私達は、演劇というものを、リアルな空間を作り出し、その虚構に対応して浮かび上がるなにかを観客と共有する装置であると考えています。
そのなにか、我々自身が生きている世界へ立ち向かう思いであったり、その気力の奮い立たせであったり、時にはその世界自身のある姿であったりするのですが、それを呼び起こす力が、オニールの戯曲にはあふれているのです。
もちろんこの上演は、ただ翻訳されたものを演出しオニールの世界を立ち上げるというものではなく、新訳、再構成、テキストレージ、脚色という作業を経て、オニールを生きる私たちの世界を立ち上げる作業となります。
あらすじ
初演時(1928)には、休憩を含め五時間半以上にもおよんだこの戯曲に描かれているのは、ニーナという一人の女性の二十五年間である。
物語はニーナが父ヘンリーの反対によって結婚が出来ず、恋人がそのまま出征し戦死した、その数日後に始まる。
ニーナの人生はこの喪失をめぐらざるをえないものとなり、この主人公と、父、父の死後兄とも親代わりとも言える存在となる作家マーズデン、婚約したまま戦死した恋人の友人で医師のダレル、ニーナとその後結婚し子供を持つことになるエバンス、そしてその子供、これらが物語の主要人物である。
ニーナは、その子供に戦死した恋人ゴードンの名を付ける。その子供は実は、エバンスの狂気の家系を心配した義理の母の強い進言によって、エバンスの子ではなく、ダレルの子なのである。表面は幸せだが内部にはおおい隠せない思いを抱いて日々を送るニーナ。
やがて息子にも恋人が出来る年になり、ニーナは息子を失いたくない思いから、ダレルに愛を打ち明け、本当の関係を彼の口から息子に告げさせようとする、が、ダレルは自分が無きゴードンの代わりにすぎないことを知って、拒否する。その息子のボートレースの勝利の喜びの中、夫エバンスは倒れ、死ぬ。
この物語は、人間が人生に於いてあり得るかなりの局面を主人公ニーナの半生にこめたもので、いわゆるリアリズム演劇と異なっているのは、人間の意識下の問題を「語られる思考」という方法で、いわばシェークスピアの独白のように俳優にしゃべらせていることである。
ニーナは、最後に近い独白で、人生というものは「奇妙な幕間狂言」に過ぎないと語る。