これは演劇に限ったことではありませんが、およそ表現芸術というものは、その創造 においても鑑賞においても、本来そこにはない、またはそこに見えないものを見ようとする行為であると言ってさしつかえないと思います。例えば、ゴッホの絵を見て我々が感じるのは、そこに見えたであろう糸杉や星月夜の変形した姿ではなく、それをそう描く彼の内面と彼自身の葛藤の姿です。彼の絵を見るまで,私たちは誰もこういう葛藤を見たことはありませんでした。これは、ミロのヴィーナスや、モナリザの微笑でも同じ事で、我々はそこに今まで見たことのない「美」というものの表現される、その瞬間を見ているわけです。 一方で、今「映像」はその技術において飛躍的な進歩をとげ、私たちはそれこそ見たことも無いものを眼前にすることが出来ます。しかしここで目指されているものは、少なくとも「演劇」の表現とは別のものであることはまちがいありません。 では、演劇の方法とはどういったものでしょうか。それは例えば、何もない空間に真っ赤な林檎を一つおいて、林檎それ自体の美しさよりも、いま林檎がそこにある、というドラマの時間によって感得される美を表現するものだと考えています。 今回のモノドラマは、いわばたった一つの林檎によって、一つの世界を作り出そうという試みです。原作の小説はすべてわが国の近代というものを背景にしています。従って、そこに見えるであろう見えないものとは、例えば私たちの抱えて来た「不安」というものがあろうと考えています。
原田一樹 |