キンダースペースさんの新モノドラマ「オダサク」を鑑賞


モノドラマとアンソロジーが混じったような舞台


物語の存在感と

登場人物の存在感

最初の三話は

物語が主張し

最後の一話は語りが紡ぎだす人物の存在が主張する


表と裏というか

舞台世界が反転したような感覚


観客の私は

物語が主張すると

個々の登場人物の内面を想像したくなり


登場人物の存在感が増すと

その虚空を見つめる視線の先の物語を

想像していく


そして

その視線の先にあるのは

いつだって

その人が思うだれかの物語


その人自身のものではない


そうやって

人生がつながり

混ざりあい

深みを増していくのかもしれない


オダサクの話は

幕切れがあっさりしてる

潔いくらいに


何も変らない繰り返しの日常のように見えて

大金を手にした後には、確実に彼の中に何かが芽生え始めたことを感じる

「人情噺」


実感がなかった許嫁の存在が

その人の通夜に出向き、家族と話し、日記を読み

そこから人生を垣間見ることで

具体性を帯びはじめ、

得てしまった喪失感

家族のそれぞれの事情も会話の間からもれ聞こえてくるような、

吸う煙草の煙の行く末を思って泣けてくるような

「許嫁」


どんな思いも

競馬という目の前で起きている興奮に

一瞬かき消される


幸か不幸か


複雑な感情のうねりの上に覆い被さる

単純な欲望を思った

「競馬」


そして最後の「郷愁」


日本語の歴史でいうと、

明治は話し言葉で文章を書こうともがいた時代

いわゆる言文一致運動の時代である

そういう話をポッドキャストで聞いたんだけど

それを思い出す


口語体の獲得により心情を籠められるようになったことで発展していった文学


その申し子のような存在なのかな? 

このころの作家たちは


作家の心情が強く浮かび上がるかのような作品で

面白かった


人物の

一挙手一投足に注視し

話の端々から

人物のドラマに思い巡らせ

創造する


視点の置き場所を模索する


しんどそうだ……


そのしんどいなかから

読み手は貧欲に面白さをあさる


読み手は

受け取り手は

そんな時に

とてつもない幸せを感じるのかもしれません


さてさて

今回は2作品を交互に公演するキンダーさん


作り手は大変でしょうね

でも観客として

とても楽しいです

えへへ


土曜日には「ダザイ」を見に行きます


文芸漫談での


「語り手を執拗に登場させる」ダザイ


「語り手が位相を変えて次々と飛び出す」ダザイ


とみると


今回のスタイルにとてもはまるんじゃないかなと

期待大です


ま、今回取り上げられた作品がどういう文体なのか知らないので

違うかもしれませんが……


今回は読まずに行きます


晩年は読み終えておきたいところだが……


とてもホクホクな帰り道でした……

ありがとうございます








キンダースペースさんの新モノドラマ 本日は2作目の「ダザイ」


面白すぎました


いろいろな語り手が登場し

いろいろなスタイルで語る


やはりダザイは

サービス精神旺盛なのかな

こんな風にも、あんな風にも書けますけどっ

と、ひけらかしてるともとれるけど


やはり私は読み手へのサービスだと思いたい


しつこく逡巡を繰り返す、

自問自答という語り口の

「姥捨」


逡巡した挙げ句のことばがそれ? 

という嫌な男


逡巡を繰り返しても何もならなく、結局逃げた男と

実は全てをわかって受け止めているかのような女との

コントラストが皮肉混じりに響く


「トカトントン」


手紙というスタイルでの語り口


田辺聖子の「欲しがりません勝つまでは」の中で語られていた戦後の日本

価値観が180度変ったことを目の当たりにする度に田辺さんが発する


「ほんまかいな」


という言葉がこの「トカトントン」を聞く度に頭に浮かんだ


もう何があろうと

信じられない

信じない

という気持ちが見えるような……


「メリイクリスマス」


観客へ語りかけるスタイル

太宰さん自身の周りへの体面はこんな感じだったのではないかしらと思う


洒落者きどりに笑ってしまう

変わらない

という言葉がいっそう

変ったことを浮き彫りにする

変わることへの期待と

変らないものへの失望


またはその逆


見えてしまうから見えないフリをしているような……

わかるからこそ突き放すかのような

それを覆い隠す洒落っけ


「待つ」

女性の独白という語り口


しかしこれこそが

ついに出た! 太宰の本音のようにも思えた


女が待つ太宰

求められる自分像

誰かを通した自問自答


二作を通じて

ラストの作品は作家の創造スタイルが出ている構成に見えた


オダサクは外に探しに行くが


ダザイは外でただ待つ

何かが自分にやってくるのを

そして何かを直視できない怖さも感じたのでした


直視できないから、何かに託す

直視は酷だから語り手を出し読み手を突き放す


……のかしら? 


太宰はよくわからない

わからないけど面白い

男としてはいけすかない気がするが

人としてはとても興味深いのでした


観劇中は夢中で見ていたのですが

帰り道にまた、いろいろ考える


明らかに変わっていく時代のなか

変らないとうそぶくのは何故か

変らないものを探し求めるのは何故か


変りたいのか

変りたくないのか


両の思いが

歴史を繰り返させ

時を巡らせてる

だけなのかもしれない


文明は科学は発展してるのかもしれないが、


欲をさらけだし

すでにあるものを単に証明してきたにすぎないのかもしれない……


何はともあれ

芝居は面白かったです