6月 9日10日 キンダースペースアトリエ 舞台は変則貫通型。客席は3段。舞台を横or向かいで見る2種類の方向が選択可能。 パンフレットには連続する作品を通して、その時代を作り出したいという演出家の言葉。 場内が暗くなると、ラジオにスポット。時代は現代から過去に。 【人情噺】 従来のモノドラマとは違い、読み手、演じ手が分割されている。 そのため、読み手を担当する2人に比べ、演じ手である夫婦に視線が集まる。 ただ、目まぐるしく進む時間を表現できていたか、というとその点はまだといった感じ。 15年経った。それを感じさせるにはどうしたらいいのだろう。 他には 結婚を勧められて、それを受けるところ ほな、と言って歩いていく、というところ 心当たりは?ありまへん、のくだり が気になった。 すがって泣いたと言う場面、1000円の金の価値を語る場面は好かった。 【許嫁】 こちらは登場人物が多いけれど、語り方はモノドラマ風。 それゆえ、前回よりも、語り手兼主役が台詞をきちんと呑んで言えていた部分が好かった。 一つ気になったのは、 どなたでしょうと尋ねられて、よしえです、と答える場面 居る場所がない見知らぬ場面に入るにしては、即答し過ぎたと思う。 【競馬】 この話だけではないのだけど、語り手が状況説明の文を流しすぎている気がした。 具体的には、因果関係のある文章をきちんと受けていない。 結果の文章を結果として読まず、まるで過程のように過ぎていってしまう。 これだと内容を知らない客は置いて行かれてしまう。 嫉妬の感情、初代の死、競馬と行く中、この感覚は読んだときも分からなかったので何とも言えないが ここに狂気はないのではないか、という気がした。結局、その一線を越えられないのが主人公の不幸なのかもしれない。 最後、妻の言葉がしっとりと終わらせていたけど、むしろ乾いた終わり方が好いと私は感じた。これは好みの問題かもしれないが。 【郷愁】 これは色々と身に染みる作品。 うーん、最終的な主人公の敗北感が出ていたかなぁ…この点だけが気になった。 出来ることをやろうとしないという部分は感じられたけど、 結局をそれは、自分に出来ないことを突きつけられるという衝撃からの逃避であり弱さであり それをあてもなくやって来た女性に不思議と重なるんじゃないのかな? やっぱり2人とも上手い。けれど、その2人の接点が、絡み合うまでのもどかしさを感じた。 【姥捨】 まず語り手が語りの中で句点をきちんと読むのに、読点を読まずに行くのは直した方が良い。 文章を切れというのではなく、息をついて欲しい。そうしたことも相まって全部同じ調子になってしまっている。 後半に行けば行くほど落ち着いたためか、良くなっていたので、これを最初から出来るようにすれば 男の表情や細かい演技はとても好かったので、これからも期待したい。好い役者だと思う。 ただ眠りから起きる場面があんまり上手くいっていなかったように見えた。 その後の場面が激しい部分が上手くいっていたので、そんなに気にはならないのだけど。 他に気になったのは、語り手の気分(男の絶望的な空気)を舞台上の全員が受けているのは良いのかどうか気になった。 これは、どちらが良い悪いの問題じゃなくて、語り手の影響の範囲がそこまであると意識してやっていれば問題がないけど 本来は受けるべきでない(そもそも他の登場人物にとっては頭の中の発言だから分からない)のに、気がつかずに影響されているとしたら 問題だなぁと考えたので、念のため確認の意味を込めて。 【トカトントン】 これはかなり従来のモノドラマに近い感じ。ほぼ主人公の頭の中の語りで進む。 始まった瞬間に、彼が一番場面の語りが上手いと思った。 しかし、それは最初の頃だけで、進めば進むほど自分の言葉も他人の言葉も背負い込みすぎて 勢いのつきすぎた流れに乗りすぎてしまい辛くなってしまっていた。 もう少し余裕が生まれたら、凄い舞台になると思う。 途中で登場する女優には言うことはありません。天才。 逆に天才の登場で雰囲気がリセット出来たのか、ここからまた主人公が良くなったのが舞台って面白いなぁと思う。 【メリイクリスマス】 男役は、アホっぽさが出てて良かった。下手な役者は変に二枚目を気取って失敗しそうだけれどそれが無かった。素晴らしい。 一方、女性役ですが、やっぱり物語の女性は男に会ったときは懐かしくて嬉しかったんじゃないだろうか。 けれど、途中で判明する悲しみが最初から出てしまっていたように感じた。 もしこの抑揚が成功すれば、もっと最後の食べ物を分ける場面が活きたと思う。 場面で止まらせるのではなく、ぜひ情景にもっていってほしい。 また、出演する2作品ともに悲しい役だけど、それを重ねないように注意して欲しい。 こちらはもう少し軽く、軽やかに入って行ければいいのかも。 【待つ】 この舞台に何かを言うのは私の役目ではないと思います。 流石、と一言だけ言っておきます。
コメントは役に立つと思えば拾って、的外れだったら生暖かい目で優しくスルーして下さい。 まだ、完成に向う途中という印象も受けましたが、 それゆえに可能性も沢山見せてくれた舞台だと思います。 特に、役者の一人一人が誤魔化さずに、誠実な態度だったのが素晴らしいです。 逆に分からない台詞は、そのまま分からないという意味で響いていましたが、それは時間をかければ解決出来ることです。 恐らく、楽日に向けてそうした部分はどんどん良くなっていくと思います。 木々や夜を映し出す照明も、移動や時間を感じさせる音響も良かったです。 舞台上の人は、この裏の仕事をもっともっと活かしてあげて下さい。 楽日まで。 応援と期待をしつつ。 2009年6月11日
全てを書く必要はない 微細なことを、わずかな真実を書けばいい きれいな点を描けるならばそれに越したことはない。 「待つ」の感想をと言われ、書かずに忘れていたので今更ですが。 今回の公演では全体的に批評と言うよりも 完全にアドバイス的なものになってしまいました。相変わらず執筆能力がありません。 まぁそんなことはどうでもいいから、早く書けということで、 「待つ」は、今回の演目では唯一モノドラマとして一人で演じられたため 一緒に感想を書いていいものか迷ったので、言うこと無しということにしていたのですが どう言うことがないのか、ちゃんと書こうと思います。 パンフレットの中には、作品たちの中から、その時代が見えてくればという文言がありました。 そういったこととは少し違うけど、その上演から 作品の奥ゆきを感じたのは、この「待つ」でした。 奥行きとは、今目の前にあることじゃなくて、もっと沢山のものが舞台上にあったということと言えば良いのだろうか。 良い舞台というものは沢山の種類があるけど、 その中の一つには、劇場の帰り道も観客の頭の中に残る舞台があると思う。 シナリオとしての魅力もそうだけど、それを活かして、そこだけで終わっていない作品はこれだけだったように感じた。 私が見た日は、どうやら天才だと思った日だったので特別良かったのかもしれないけど・・・。 それがどうやって生まれるのか? はっきりとしたことは言えないが、役者たちが作り出した想像上の登場人物の考え方が一貫していることが必要なのだろうか? きっと、一日でその感覚が消えてしまうのならば、不確かなものが無ければならない。 その不確かさは、演じる側の考え方や癖みたいなものなのではないだろうか。 それは、ある種の嘘だし、それを矯正しようとすれば意識的な嘘をつくことになる。 私たちは一日に千回以上の嘘をつくらしいけど、その中で意識的な嘘は極わずかでしかない。 嘘をつき慣れて筋力をつけるのか 嘘をつかないで済むように柔軟性を高めるのか 一杯色んな方法があるんだろう。 2009年6月30日 |