今回の舞台は「なだらか」だった。

薄暗い光を漏らす天窓が吊り下げられた、部屋とおぼしき空間が観客を迎える。
上手と下手には机、片方には覆い、舞台中央にはいくつかの椅子と机。
キッチンらしい小さな空間が奥にある。この場所は舞台の中に小さな別空間を作るのに利用される。
そして、こうした部屋を取り巻くように幹を失った枯れた木が舞台奥で下からライトアップされている。
こうした下からのライトアップによって、影のある光が木にまとわりつき不穏な空気を醸し出している。
そこに入場する2人の女性。しばらくすると花道から本を持った女性が現れて
本を広げ、舞台の開幕を告げる。

1幕はパーティの場面から始まる。いや、正確に言えばパーティのはずれである。
この幕は男達の幕と言っていい。旧友との再会、父と子の対立、過去の因縁。
それが、騒がしいパーティの外縁で語られる。
一幕の終わりグレーゲルスと父ヴェエレの会話の部分は
照明の微妙な変化やパーティと絡めた音響は素晴らしい効果を上げていた。

2幕は既に第1幕と同時に既に始まっている。照明の加減で良くは見えないが
パーティの間の家族の様子は既に観客に分かるようになっているためだ。
ここでは母と娘の他愛のない家計に関する話、お爺ちゃんとお酒。
帰ってきた父親の失敗など、どこにでもある家庭が描かれる。
途中までは。
グレーゲルスが訪れると、家庭に隠されている一面が次第に見えてくる。
屋根裏部屋という異質な空間が、舞台上から花道を通じて繋がっており
そこには兎や鳩、そして野鴨が暮らす小さな箱庭世界がある。
それが私たちが劇場に入る入り口というのはある種の皮肉なのかもしれない。

1幕から第2幕にかけて、主人公のグレーゲルスには居心地の悪さが感じられる。
場違いなパーティに続き、第2幕でも一人最後に舞台上に残される。

3幕からは家庭に潜んでいた歪さが徐々に露わにされていく。
エクダル老人がもはや現実ではなく、屋根裏部屋という幻想の中に生きていることが
一発の銃声によって観客に焼き付けられる。
続く医師レリングとグレーゲルスの対立は見物だ。
確かに彼らの台詞は言われているように教条的だが、この場面が教条的と見る人は居ないだろう。

4幕は壮絶だ。これまで信じていたものが、信じられなくなった苦しみ
覆われた過去は、それを知らなかったものと、知っていたもの両方を傷つける。
かつて信じていた才能に裏切られたヤルマールは、その代わりに手に入れた家族を再び失う。
妻との激しいやり取りの後で、ヤルマールは自分の発明が駄目にされてしまったと口にする。
この時、第5幕を待たずとも彼が何を望み、本当は何を取り戻したかったのか、それがこの瞬間に既に明らかにされている。
その後、レリングの忠告があったにもかかわらず、何も知らないヘドウィグは傷ついていく。
しかし、ここに悪意は存在していないし、責められるべき悪人もいない。
確かに過ちは存在しているのかもしれないが、ただこうありたいという生き方や、意味によって振り回される人間がいるだけだ。
理想も見方を変えれば嘘であり、嘘も真実を示すことが、いや真実そのものということさえもありうる。
頭で考えていることだけを大事にしないで、そうセルヴィ婦人は語っているが
その言葉すらも、考えて語られた言葉なのだ。
しかし、問題はこれを受け取る側にあるのかもしれない。
恐らくこの言葉は男女によって受ける感覚が異なるだろう。

その後、この言葉の無力さを痛感させられるようなシーンが
舞台上では繰り広げられる。
奥のキッチンで妻のギーナが身だしなみを整えてからでてくるのだ。
言葉で語ってしまえばこれだけだが、
未だに2人の仕草は焼き付いている。困った困った(笑)。

そして、最後の銃声が響きわたる。
この時、ヘドウィグは鴨に銃を向けたのだろうか?
それとも、すぐに自分に銃口を向けたのだろうか?
それは分からない。しかし、幕はまだ降りない。
取り残された大人たちはまだ言葉を放ち続ける。
それしかしようがないように。
しかし彼らの声は音楽にかき消される。
彼らの大切なものがかき消されていったように。

「なだらか」に、そして「なめらか」に観客を引き込んでいく今回の舞台。
心地よい観客とは対照的に、演じる側の苦労は計り知れない。

日本ではイプセンが演じられることは少ない。
そこでよく演劇関係者が口にすることが、彼の作品が教条的、説教的だというものだ。
そして、同時にシナリオが決まり切っていて、幅がないから演出家や劇団が好まない。
これがイプセンが日本で人気のない理由らしい。

しかし、そうした言い草をキンダースペースの「野鴨」は真っ向から否定した。
幅を出せないのはイプセンのせいではなく、創造者側の読解力と表現力の欠如なのだ、と。