野鴨1回目
一昨年に他の団体の「野鴨」を観たが、やはりそこと比べちゃう私には、なるほど、そうだったのか!というシーンの連続でした、今回。
何だこのシーン、くだらねえ不毛な会話だな、もう! と嫌悪感すら抱いたシーンにも、何といいますか、こんな葛藤が隠されていたのか……と感じることの連続で。
とにかく面白かったし、色々考えてしまいました。

印象的だったのはレリングの立ち位置と衝撃的なラスト。
ラストはびっくりした。こんな終わり方があるんだって。演出すごし。

エクダル家の上で違う次元でかわされるかの議論の応酬は、テレビで街角で、よく見、よく聞く光景の様に見えた。
自分もこんな議論をしてしまっているかもしれないとゾッとした。

レリングは一昨年の別の団体の舞台では成り行きを見守る紳士のような立場だったが、今回のように、グレーゲルスと同じ立場で対比させることで、正義やら真実の曖昧さが浮き彫りにされていくようにも感じた。

レリングは正義を憎みつつ、言葉を変えた正義を秘めている。

ヘドヴィクが銃を手に屋根裏に向かうシーンでは予科練の資料館で見た幼き戦士たちのあどけない遺影を思い出した。

エクダル家の14年の生活の営みの重さ。
比べる訳じゃないが一昨年の舞台はここをないがしろにしていたのではないかと思った。

ギーナを同じ女としてこんなに愛しく思えるとは、共感できるとは。言葉って不思議。どう操るかでこんなにも見え方が違うんですね。

今日は何だかものすごくドキドキしてしまったので、明日はもっと落ち着いて観るぞ!
やっぱり芝居はいいね。

※野鴨二回目

随所、随所でこみ上げるものが……

昨日はギーナの目線に取り込まれ、すっかり世界に入り込み、なぜ? なぜ?と、どうすれば?と悩み考えていましたが、今日はいろんな人に感情がふれ、感情が揺さぶられ、考えるとかの余裕がなくひきこまれ……

だからラストの衝撃が昨日よりもでかかったです。
知ってるはずなのに不思議……

ダブルキャストを観ると、どっちのここがいい…とかの比較になりがちな私ですが、今回のはどっちもそれぞれの魅力で面白いし、そういう次元ではなく両方見ることでハッとすることが多々有り、両方観たからわかることでもありで、実に楽しい体験でした。

今日のヘドヴィクが死にいくシーンでは、小さい頃、心底嫌な気持ちになった両親の夫婦喧嘩を思い出した。
私は今でも、どなり声には心を閉ざします。
大人って子供にはわからないだろうと、時に子供の存在を忘れてしまう。

芝居を観てても、気づくとヘドヴィクの存在をしばし忘れ、大人たちの論争に夢中になってしまう。
その末にひどく心を傷めてしまっている子供に気づきハッとするということが多々ありました。
ゾッとする、本当に。

正義という曖昧なものを相手に押し付けるための「証明」を探し続けるグレーゲルスが哀れにみえました。

理想には正義には証明が必要になる。
曖昧だからこそじゃなかろうか。
理想や正義が確かなものなら証拠も証明も探す必要はない。
自ずと表れるはず。そんな矛盾も感じた。

ヤルマールのラストの叫びは動員挿話の友吉の叫びを思い出し、友吉もそうだったのでは……と納得してしまった。

いろいろありすぎてまとまりません。もう一度、戯曲を読み直しつつ、キンダー版野鴨を反芻し考えたいと思います。