創立30周年記念公演第三弾 レパートリーシアターVol.36
別役実フェティバル参加作品

『赤い鳥の居る風景』
作/別役実
演出/原田一樹

原田さんが当日パンフレットの挨拶文で書かれているとおり、非常に「多声的」な作品でした。


町長さんをはじめとしたいわゆる「世間」のような存在、委員会の男(権威的な存在)、旅行者や若い女(アウトローな存在)など、主人公の家族の周辺にはさまざまな人びとが往来していて、いろいろな声が飛び交い、場の緊張というものが緩んだり高まったりしていたところが、最後の最後、盲の女の独白中に舞台が溶暗し、女の「一声」に収れんした?瞬間があった気がするのですが、大胆な演出だと思いました(という解釈をしました)。女のなんというか、ギリシャ悲劇的な芯の強さが屹立した瞬間というか。でもどこか女には、日本の妖怪じみた「陰」もあるのですよね。


ところで、キンダーの公演を観た帰りしな、ふと記憶がよみがえり、高校生の時に先輩たちが文化祭で上演したのを観たのが最初の「赤い鳥〜」体験だったなと思い返しました。20年くらい前のことです。その公演はやたら「弟」が前面にでてくる印象でしたが、上演する高校生たちが自分たちなりに「生きる意味」について考えた結果、意識的にか無意識的にか「弟」に思いのたけを注ぐという結果になったのは、想像にかたくない流れのように思います。


翻って、キンダーの舞台では「女」の印象がとにかく強かったです。弟の「リアルなダメさ」も相当ぐっときたのですが(原田さんから、俳優さんが中学3年生と聞いて、すごいな、と驚きました。積むべき人生経験をうまく積めない若者を演ずるというより、人生経験をまだ積んでいない(!)俳優が来たるべき社会との軋轢を演じていたのだ、と想像すると、観劇後も二重に面白いというか。いや、俳優さん良かったと思います!)。やはり女が、世間の声、両親の声、弟の声、自身の声に耳を傾けながら(もしかしたら全く耳を傾けていないのかもしれませんが)、進むべき道を見出していくところに一番大きなドラマがあるという見せ方(と私は勝手に解釈したのですが)に非常に納得感がありました。

思えば、はじめて自分でお金を出して買った戯曲が「金襴緞子の帯しめながら」という、別役さんの100作目が収められた戯曲集で、「演劇とはなんぞや」と手探りをはじめた大学生の頃、ちょうど発売したので手にとりました。学内でその本の中の一作を試演したのが、自分で芝居を「打った」最初だったと記憶しています。別役作品、再読してみたいと思います。